shudaily

日記

2019/10/10

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昨夜、昨日出かけた蒲田にポータブルwi-fi端末などを忘れたことに気がつく。ノートPCでインターネットに接続できないとなっただけでこの落ち着かなさである。

そして今朝。蒲田まで取りに行こうと社内チャットに遅れる旨を連絡すると、なんと先輩が蒲田の区役所に行くらしく、代わりに取りに向かってくださるとのこと。ありがたくそうしていただく。だから朝の準備は少しだけのんびりして、最寄りの駅に向かう。

会社に着いたら引き続き原稿整理。ひと段落したときには夜になっていた。ちょっと別のテキストに目を通したくなったので、『ゲンロン10』に収録された東浩紀さんのテキストを読む。メールを少しチェックして、そして帰る。

帰りの電車内で川崎さんからもらったバラード著『燃える世界』をようやく読みきる。海は枯れ、雨も降らない干上がった世界の情景を淡々と描いた作品であった。直前に読んだ東さんのテキストの影響か、私には"数値化"の暴力に対する想像力について書かれた小説のようにおもえた。物語はランサムという人物の視点を中心にして描かれるのだが、彼を含めた登場人物の考えや思惑はほとんど描写されず、それらは数少ない表情やしぐさから想像するしかない。シーンの間に何が起こっているかも明かされないので、一人一人がまるでエイリアンのような理解しがたい行動をとる不思議な存在のまま終わる。行間を想像せよ、なんていう作品にもおもえない。なぜ地球が干上がったかなど物語世界の設定に関する説明はほぼないに等しい。おそらくは、テクノロジーを追求し続けた資本主義下の結果としての旱魃なのだとは予想できる。あらゆるものを数として交換可能にするのが資本主義なのだとすれば、その成れの果ての世界に人間としての固有性をまったく感じられない交換可能ともおもえる登場人物たちが水を求めて彷徨っている。もちろん人物は匿名ではなく名前が与えられているし、それぞれの行動に特徴はある。とはいえ、読んでいるうちにだれがだれでもよくなってくる。それにこの世界の別の地域では同じような状況がいくつも存在していそうでもある。本文曰く、ここには過去(歴史)も未来もない。そんないまここしかない世界では、干からびた海も、そこらに散らばる魚や動物の骨も、そして人間すらも等しく、どれがどれでもいい存在なのかもしれない。ただ水を除いては。悲しさと自然の畏怖に満ちた世界なのだけれど、それにある種の美しさ(いや、こういうのを崇高というのだろうか)を感じてしまうのもまた人間である。

それにしても文字情報を脳内で風景に変換するスピードがとても遅いのは、ただ小説を読む量が足りないだけなのだろうか。

帰りは最寄り駅のすぐ隣にあるお気に入りの定食屋さんで野菜カレーを食べる。深夜までやっているし、味も素朴で気に入っている。テレビのサイズと音がちょいとでかいところが惜しい。帰っても頑張るんば。

2019/10/9

朝起きる。昨日は風呂に入っていない、というよりシャワーを浴びていないので、とりあえず髪の毛以外を洗う(髪を乾かす時間がないのである)。野菜生活を切らしていたので、最寄りに行くまでの間は何も胃に入れずひたすら歩く。

会社に着いてからとにかく原稿整理。危機的であることには変わりはない。お昼はファミマに売っていた若鶏とわさびのパスタ。久しぶりに食べたが、やはりわさびの辛みが強い気がする。熱い湯気とともに鼻から抜けていくので体感ツーンはかなりのもの。ツーンとなりながら食べ終わる。やはり引き続き原稿整理。書き起こしに慣れている人にとっては当たり前かもしれないけれど、話しことばと書きことばのしくみが違いすぎて毎回仰天してしまう。私たちはこんなバラバラの意味の塊と順序でもって会話をしているのね。どっちかというと特殊なのは書きことばなのだろうけど。

18時過ぎになり、蒲田へ。若くして(こういう言い方はよくないな)八面六臂で活躍している川崎さん、島影氏、岡田くんのイベントに挨拶と本の売り子を兼ねて出向くのである。原稿が私の袖を引っ張るので、トークを聞きながら少しずつ作業する。それにしても彼らのすごいところは、私の苦手なこと、つまり徒党を組むということを緩やかにやってのけるところである。それには、彼らが持っている世代に対する連帯意識と対抗意識が大きく関係しているのだろう。コレクティブということばを最近よく耳にする。彼らのいう"今後を生き延びる"ということを考えると、確かにそれは必要であるようにおもえる。経済圏とその外部の話。私も、ある程度は真似する必要があるとおもう。彼らのいうオルタナティブ/インディペンデントというものについてはいろいろとおもうことはあるが、とはいえ決して他人ごとではないので私なりに考えていきたいものである。あと単純にイベントをしないと!

もうすぐ家に着くというところで、今朝ゴミを出しそびれたことを思い出してがっくり。パイプにも葉がつまったままかもしれない。特にバージニア葉のみのものは味がひどく落ちるので気をつけたい。整理すべきものばかりである。

2019/10/8

いきなり3日間も日記さぼってしまった。これはいけない。土日はさておき昨日は倒れていたので、今日のことを書いていこうとおもう。

朝起きて、野菜生活を飲みながら最寄りの駅へ。今日胃に流し込んだのはスタンダードである緑色の野菜生活。会社についたら企画会議。営業も交えての会議であったが、私は提出するものがないので(まずクリアすべきは編集部での会議なのである)、他の人の企画を吟味。この方の企画書には想いがのっかっていることがテキストから伝わるのでいいなと思う。企画の吟味が終わったら、過去に出した本の売上を振り返る。今回は私が担当したものであった。制作中もニッチな内容であることは認識していたが、ニッチな方から言われた「この本はかなりニッチですよ」という言葉から、私が想像しているよりもニッチであることが判明したのが最近である。対応策を考えねばならない。しかしながら、本の価格というものにはいろいろと考えさせられる。再販制度によって本の定価は基本的に不動とされ、それゆえによく「定価=本体+税」と表記される。これは、知的資料である本には市場に左右されない固有の価格がある、と暗に示しているようでもあるし、実際にそんなような説明をさらりと受けた記憶もある。再販制度には本の流通上一定の理があるわけだが、本の価格はその時勢における出版社の金銭的な事情やどれだけ売れるかという見込みによって決定される。言ってしまえば、内容の価値そのものと本体価格はほとんど関係がない。もちろん、この内容ならばもうちょっと高くしよう!、となることもあるが、それも出版社の都合である。定価の背後に何が定まっているのか。それを考えると、本の定価というものはなかなかおもしろいとおもう。

会議が終わったら即多摩美へ足を運ぶ。上野毛キャンパスは会社から割と近いので助かる。学生とともに講義を受けつつ、どうこれを本にするか考える。当初私が考えていた反体制的な内容にするよりも、もっと講義によった方がよさそうではあるが、ううむ、悩ましい。しかし、私の容姿はまだまだ学部生としても通じるのではなかろうか。

多摩美からの帰りは自由が丘で降りる。電源もWi-Fiも確保できるバーガーショップにてたんたんと原稿整理。気がつけば3時間半程経っていた。若干の環境管理型権力を思わせるカタイ椅子に座っていたため、ちょっぴりおけつがいたむ。しかし、会社よりも少し雑音レベルが高いお店の方が集中できる。会社にもどったら原稿整理の続き。やばい終わらない。

家に着いたら飲みかけのパイプを掃除して、また原稿整理の続きである。

2019/10/4

朝起きる。10分ほどぼんやりし、10分ほどして家を出る。いつも通りである。カゴメの野菜生活を飲みながら最寄りの駅に向かう。これもいつも通りである。最近出た梨味がおいしくてうれしい。もう秋。

恵比寿に付き、ブルーベリー味の飲むヨーグルトを買って会社へ。比較的長めのメールを打ったら、編集会議に。準備した新企画を2本提案、というより相談する。片方は提案する前から「これはバージョン1です」と宣言したのだが、2つともとりあえずは見送られる。反応は思っていた以上によかったので、なんとか不確定要素をつめて実現させたい。どちらもとてもよい企画だとおもう(世の提案者はみな自分でそうおもっているのだろう)。

お昼はカレー。チョコパンも買ってしまったが、これは余分であった。食後、不思議な偶然かそれとも縁か、提案したい企画の著者候補が同僚と同じ美容室(個人経営)に通っていることを教えてもらう。しかも会社から近い。ということで、すぐさま案内してもらって美容室を訪ねる。とりあえず美容師さんにご挨拶して名刺を渡したら、仲がよいので連絡してあげるよ、とのこと。とてもよい方で安心したが、接客中なので少しわるいな、ともおもった。会社に戻ったら原稿整理。

夕方になり、HATRAの展示会に予約したことを思い出してすぐに出かけたのだが、会場が空いていない。よく予定を確認したら来週なのであった。約30分の散歩をすることになってしまったのだが、こんなことをしている場合ではない。しかし会場が近くてよかった。会社に戻る前にコンビニでアイスの実・巨峰味を手に取る。2日前に大家さんに巨峰をもらったことを頭に思い浮かべながらも購入。

戻ったら、アイスの実を食べながら引き続き原稿整理。どうやら私は巨峰味よりも巨峰が好みのようです。家に着いたら洗濯物と原稿を整理せねば。

2019/10/3

日記をはじめようとおもう。どんなに短くてもなるべく毎日書くようにしたいけれど、いやになったらちゃんとやめます。早々にやめることを匂わせてしまってなんだか情けない。もとより継続的な活動は苦手であるし、それこそ最近の課題であるようにおもう。やっぱり3日に1回にしようかな。あまちゃんである。

唐突に日記を始める理由を言えば、日々たんたんと些細なことでも書き記せばもうちょっとだけ健全な心持ちで毎日を過ごせるのではなかろうかと漠然と感じているから、となる。今年に入っていつからか、どうにも体が動かない、誰とも連絡を取りたくない〜という職業的にもひじょうによろしくない状態にまま陥いるようになってしまった。できないのか、したくないのか、なかなかグレーではある。見かけ上は元気っぽいのだけれど淀んだ水にぼうっと浮かんでいる感じ。そんななかで、必然的に人と話さざるをえない打ち合わせというものに何度か救われている。人と会ってしまえばこっちのもので、ありがたいことに勉強にもなるし、なにより気力がわいてくる。対面というやつはすごい。
また、作家である永田康祐さんの日記を読み始めた影響も大きいかもしれない。読むたびに、安心するあの気分をただただ感じていたい、とよくおもう。イラストレーターの菅幸子さんの日記も以前からお気に入りだったりする。ほんわかするのである。

私の仕事の基本は尊敬する方々といっしょに本を作ることなので、自らが支障をきたしてしまわぬことを願いたい。すでにきたしてしまっている分はちゃんと向き合わねばならない。役割が逆になってしまっている。それに、このところは恵まれているであろう状況や環境や本をいかしきれていないことに非常にもったいなさを感じているし、それについてはのちに書くと思う。

おそらく自分のような職を持つ者はもっと毅然と座しているべきなのだろうけど、そうも言ってられないので公開してみたわけである。言い訳めいたはじまりになっちゃった。不安げな文面ではあるけれども、基本的に対人はお茶目であると思います。