shudaily

日記

2019/12/2

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朝。今日も野菜ジュースを切らしていた。小降りの雨が落ちるなか最寄りの駅へ歩く。会社に着き、ちょっとして会議。30分ほどで終わる。それから依頼メールを送ったり、印刷見積もりとにらめっこしたり(にらんでも金額は変わらない)、カンタンな台割りを作ったり、原稿の確認をする。今日は原稿をさわっていたら夜になっていたよ。

そうそう、ようやく『クリティカル・デザインとはなにか?』が上梓されました。「次はなに?」がはやい世の中で消費していくのではなくうしろを振り返るようなデザイン書になったとおもう。さっそく私のもとには刺激的な批判が寄せられていてとてもうれしい(し、私もおおよそ納得できる)ので、もっと読まれるとよいな。著者はセント・マーチンズにいるデザイン研究者のマット・マルパス、翻訳は近美工芸館の学芸員女子美で講師をされている野見山桜さん、監訳は水野大二郎さんと太田知也さんというSFC師弟関係にあったデザインリサーチ本丸のお二人。そしてブックデザインもそのお二人と関係の深い村尾雄太さん。村尾さんと本の設計を考えるのはなかなか楽しい。岡田先生、長谷川さん、岩渕さんを交えた、希望とやりきれなさが混じった座談会は少しでも希望が感じられる原稿にするべくちょっとだけ難儀した。水野さんの司会の妙に助けられました。

振り返れば、アルバイトのときに『我々は 人間 なのか?』の出版にこぎつけて以降、川崎さんの『SPECULATIONS』、そして今回の本という、当初は想像していなかったデザインの言説に足を踏み入れることになった。通常、編集者という職種の人たちは先に新しい価値を見つける役回りなのだろうけど(ちなみに自分のことを"編集者"と名乗ったことはないのだが)、『インスタグラムと現代視覚文化論』しかり、企画時点では私自身見えていなかった本の価値を著者や周りの方々が気づかせてくれることがほとんどである。すごくワクワクするけど実はなんかよくわかんないものができつつあるな、とだんだんその本の重みに気づいていくといった具合(これってけっこう恥ずかしいことな気がする……)。もちろん本を出版するということはさまざまな合意形成や多方面への説明が求められるので第三者用の言語化はするのだけれど、いつも見えない外部がある感じと言えばよいか。ありがたいことに「尖った本作っているね!」と言われることがあり、そのときは照れながらへへーん!なんて調子づきそうにならなくはない。しかし実際はといえば、メインストリーム(というものがあるとすれば)そこからこぼれ落ちてしまうけれど大切なものを拾い集める感覚であったり、今かたちにしないと今後できなくなりそうだよ〜みたいな心持ちで制作していることがほとんどな気がする。

日記をさぼりすぎていたので、最近のことについて書くつもりだったけれど、疲れたのでまた今度。ラジオに出させていただくも口下手さが爆発し情けなくなったことや(聴くのコワイ)、TRANSBOOKSで買った同人誌のこと、とてもおもしろかったテニスコートのコントのこと、そして寝ずに25話分を一気に観て感激した『リトルウィッチアカデミア』のこととか。いずれ。

2019/11/8

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校了したのは一昨日の夜であった。当初よりもスケジュールがかなり長引いてしまい、関係者には多大なご負担をかけてしまった。私も途中でスピリチュアル・ノックダウン(ポップに言うとこうなる)をくらってしまい今も若干尾を引いているという状況で、情けないと言わざるをえない。わなわな感とともに校了のための仕上げの作業をし、印刷屋さんへ電話、入稿を終える。直後、いつもなら関係者へ校了の旨を伝えるメールをするのだが、テキストを書く手がとまってしまったので翌日落ち着いて打ち直す。

次の日は昼に印刷立会い。そして今日も印刷立会い。今回はカバー・帯ともにオペークインクの上に特色をのせるので、1日目にオペークを刷って乾かし、2日目に特色を刷るという 2Days。

印刷所へはデザイナさんと赴く。私が着るものはほとんどワンピース丈のものであるためか「心は女性なのですか?」と聞かれた。それに対し、「女性に好意を寄せる男性です」と答えておいた。例えばグレースケールにおける黒がいわゆる”男性”だとすると、65%ほどに見える容姿でいたいとなんとなくおもっている。彼の聞き方からして、その思惑はひとまず成功していると言えるだろうか。ついでに、ほとんどの服は排泄器が人体の中心にあることを念頭に作られていないと愚痴ったら、そんなどうでもいいことを考えているのですねと言われてしまった。男性である私にとってワンピース丈は排泄時とても不便であるし、普通の服にしたってズボンのチャックを開けて下着をかき分けたりパンツをズリっと降ろしたりと、あまり排泄に適しているとはおもえない。排泄に最適化させて服を作るなんてナンセンスかもしれないが、着ている服を動かすのはそのときくらいなのだし、ともおもう。大きな植物のような服からヒダをかき分けるようにして排泄できる服があれば今よりはずっと快適になるだろうに。妄想である。

印刷所へ着く。担当の方に相談しながら色の調整を進める。オペークにのせる色は本文にも使うので両色味をなるべく合わせたかったのだが、カバー・帯と本文の紙色が若干異なるし、そもそもオペーク上なので発色はそりゃ変わる。すでに一部刷り上がっている本文の見本とつきあわせながら調整してもらうが、やはりぴったりは難しく、かといって本文色に寄せ過ぎるとカバー・帯の印象がずれる。加えて、乾けば色味は変化する(赤が浮き出てくるらしい)。いろいろ悩んだ末に、よきところでデザイナさんに決断してもらう。印刷所を出る。電車で帰る途中、継続できる制作の仕方をしないと何も意味ないですよね、とデザイナさんがボソッと言う。私にグサリと突き刺さる。そうですね、と返す。

彼とわかれ、次の打ち合わせに向かおうとしていたところ、Ccに私を含むメールが飛んでくる。どうもキナくさい雰囲気を漂わせているので、うげえとおもいつつもすぐに対応すべくマックに寄る。メールを返し、加えて細々とした業務もしちゃったりなんかする。そして打ち合わせ現場へ。事務所はとても綺麗なマンションだったので入り口でひとまず躊躇する。逃げる、という選択肢がないので緊張しながら建物に入る。ピンポンを鳴らす。室内は作業場らしき机とデスクトップPC、ダイニング側にはテーブル、一枚の絵とネオンサインの作品、あとミケーレ・デ・ルッキのランプをぐねぐねにしたような照明が壁の方を向いて暗く佇んでいるくらいで、おどろくほど物が少なかった。それに紙のたぐいはひとつも見かけなかった(もちろん他の部屋もあるのだろうが)。初対面の方であったが、話が進み安心する。仮眠として床で寝るけどすぐに床の硬度になれてぐっすり寝ちゃいますよね、みたいな会話を最後に事務所をあとにする。

外はすっかり暗い。会社へもどり、校了〜刊行までにするべき業務の続きをする。コートを着るには暑いくらいの電車に乗って帰宅。

届いていた低級失誤の作品集を眺めて癒され、気がつけば日付が変わっている。

2019/11/1

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昨夜、時計の短針がてっぺんから50度ほど進んだころ、デザイナさんから9割程度完成した表周り(カバー・帯・表紙)のデザインがあがってきた。反旗を翻すような意味はまったくないが、私の所属する出版社らしくないところがとてもよい。すぐさまコメントと相談と注文をまとめて返信する。本の表周りはあと1割がとても大きな戦いになるのである。ちょうどその頃、監訳者の方からも赤字のお戻しがくる。こんな時間まで作業させている私は近いうちに呪われてしまうのだろう。そして朝がくる。

最近、野菜生活を飲みながら最寄り駅までに行く習慣が途切れてしまった。ここしばらくは帰りが遅いので、夜23時まで営業しているスーパーで野菜生活を6本買って帰る(3本単位で買うとちょっと安くなる)というルーティーン、ルーティン?、ルーチン?がどこへやら。今日も買って帰ることはできなさそうだなと思いながら丸ノ内線駅構内への階段を降りる。

会社に着き、デザイナさんへ渡す赤字をまとめる。そして編集会議。あがってきた表周りのデザインについて、改善すべきと思われるポイントとともに共有する。私はこのデザインの味方にならねばならないし、なりたいとおもわせてくれるような出来である。不思議がる声があがりつつも少しよい反応も得られる。このまま調整を重ねればなんとか進められそう。本の表周りはあと1割がとても大きな(略)。会議が終わり、校正にもどる。エージェンシーから送られてくるはずの画像データをあきらめ、ついに原書にある図を自ら制作することを決意する。illustratorで元の図をトレースして作るのだが、円弧が多くてなかなかやっかいであった。残りの画像はスキャン&photoshop補正コースである。30枚くらいある。ひどい。日曜日にやろう。校正をしつつ、デザイナさんとやりとり。非常にギリギリのタイミングではあるが、夕方過ぎまでに用紙と使用する特色を決定しなければならない。彼も迷っていたようなので、DICを見ながらあれやこれや相談しながら決める。どんな仕上がりになるのかつかみにくい色にしたので非常に楽しみであるが、怖さもある。それでよい。そして印刷屋さんともやりとりをする。何度も見積もりを取り直した末になんとか希望していた仕様が可能になった。よき仕上がりにしたいものである。本文テキストには特色を2つ使用するのだが、今回は中面の色校正がないので出来上がりを知るのは刷り上がってからとなる。もちろん表周りは色校正をするのだが、時間に余裕がないし、なによりインクがきちんと乗るか否かが出来上がりに大きく影響するデザインなのでなかなか緊張する。しかし本機校正ではないので本番も校正通りにいくかどうかわからないらしい。色校正とはなんぞや。印刷立会いが勝負となる。さて、今はそれよりも中身である。まだまだやらねばならないことはあるので引き続き作業する。

今日はこのへんで。

2019/10/31

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小城開人|「わたしはパイプではないのですか?」より


恵比寿に着き、会社に入る(今日はいきなり会社から)。監訳者の方から赤字が届いたので、自分の赤字とがっちゃんこさせる作業をひたすらおこなう。それとともに、監訳者の方にお送りした自分の赤字を見直して必要あらば修正したり、用語を統一したりしながらあらたに赤を加えていく。それにしても、一向に原著版元から使用する画像データが届かない。すでにデータ費はお支払いしているのだが。もうすぐ入稿であり、このままでは原著からスキャン&photoshopで補正コースになりそうだが、最後に手間を増やしたくないので届くことを祈るばかりである。すべての画像データをもらえるわけではなく、一部は自分で許可取りしてくれ、と言われている。そのうちのひとつはまだOKの返事が来ていないことに気がつき、冷や汗をたらす。その他はすでにOKとともにデータの受け取りを完了している。分野の中では大きな名前の方に直接メールを差し出したのだが、わりとすぐに返事が返って来たので、すごいというかエラい(上から目線)なと心からおもう。

校正作業と並行して、印刷所やデザイナさんとやりとりをする。ここ数日は、特にデザイナさんとの電話時間が増加傾向にある。日頃の業務の中でも好きな時間ではある(もちろん伝えづらいことを言わねばならない瞬間だって少なからずあるのだが)。ぼんやりとこんな感じかなと頭の中で想像していたデザインへと向かって、それいいですね、おもしろそうですね、いやそれは違います、などとコメントを投げつつ、時に発散しそうになりながらも結局は予想外の方向へと収束させていくプロセスは非常に楽しい。苦しいのは手を動かすデザイナさんであるのだから、なんとまあ呑気なことかと言われそうである。お互いに切断/決断をしないタイプだとあれもこれも状態になるので、ときに我に返って決断をする。とはいえこの世には予算とスケジュールという厳しくて尊くて悩ましい制約があるので、必然的にそうせねばならない。今回の本は(も)用紙が2転3転しているので印刷屋さんへの注文や相談が増える。そんなこんなしているともう夜になっている。

そういえば最近、とても衝撃的なことがあった。それは部決のときのことである。部決とは、営業部を交えて出版する本の価格と部数を決める会議のこと。今回は本自体の市場的な位置付けのむずかしさもあってか非常に難航し、タイトルや帯のテキストも含めて決定に至るまでに多くの時間を費やした。私のプレゼンが上手ければ……と強くおもうのだが、しかし特殊な内容なので仕方がないのだろうな。などと言いつつそんな本ばかりやっている気がするのであるが、それでいいようにもおもう。さて、衝撃的な出来事である。部決にて帯に載せる文章について議論してるときに、とあるひらがなの読み方を間違えていることを指摘されたのであった。そのひらがなとは「へ」。生まれてこの方、私は「へ」を「うぇ(we)」と呼んできた。もちろん「へ(he)」という呼び方は知っていたのだが、「へ(e)」の方を知らなかったのである。例えば「向こうへ(e)」は「向こううぇ」と口にしてきた。む・こ・う・え。間の抜けた耳触りに感じるのは私だけか……。一体、みんなはいつ「へ(e)」という呼び方を知ったの? 部決で「向こうへ(we)」と言ったとき、社内の人たちは呆れながら笑っておりました。28歳、秋のことである。

さて夜になったが、デザインのラフが一度あがって以降デザイナさんから更新の連絡がないので電話をかける。いろいろ話す。そろそろ時計の針が11時へと向かっていたので、一度帰る。その途中、新宿駅シマシマ模様の囚人服を着たコスプレイヤーを見かけた。ハロウィンである。彼女たちを眺めながら、昔読んだミシェル・パストゥローの『悪魔の布:縞模様の歴史』を思い出す。縞模様は、見てのとおり線が交互に繰り返される、つまり部分と全体の関係がかき乱され体系として成立しないものであるがゆえに無秩序や混乱の象徴とみなされていた(もちろんこれは遠近法を中心に据えるからこそ成り立つ考えなのだろうが)、みたいなことが書かれていたとおもう。当時はおもしろく読んだ記憶があるが、詳しい内容をいまいち覚えていない。コスプレイヤーは元気そうだった。

これから参考文献ページの原稿をまとめなければ。よっこらしょいのすけである。

2019/10/19

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起きてしばらくぼうっとする。ふっと身を起こして会社へ。着いたら原稿の整理&確認をする。サブディスプレイがあるだけでとても作業がしやすくなる。社内には私の他にひとりしかいないので、ノートPCから音楽を垂れ流しながら作業。少し配慮して音量は小さめに。ノルウェーの歌手AURORAの曲をしばらく流す。彼女は私のあこがれの存在でもある。ちなみに最近ミュージックビデオが公開された「Apple Tree」のYouTube概要欄には、彼女の次のメッセージが載せられている。

Apple Tree is about the potential that hides in all of us. We can all save the world if we put our minds to it. The world won’t listen to scientific proof that the world is dying, so maybe it will listen to the dreamers, the children. In a bleeding world the power of the individual is our only hope. Let her save the world. Let him save them all. Believe in us, and maybe we’ll be the generation that saves the world, rather than the one that killed it”

以下は、みらい翻訳で訳出し少し手をいれたもの。正確さに欠けるので注意。

Apple Treeは、私たちみんなの中に潜む可能性について歌っています。私たちはみな、本気になれば世界を救うことができるのです。世界が死にかけているという科学的証拠をこの世界は聞こうとはしないのでしょうが、夢を見ている人や子どもたちの声であれば耳を傾けられるでしょう。血を流す世界においては、個人の力が私たちの唯一の希望となります。彼女に世界を救わせなさい、すべて彼にまかせなさい。私たちを信じなさい。おそらく私たちは、世界を殺した世代ではなく、世界を救う世代になるでしょう」

おそらくは環境活動家のグレタ・トゥーンベリの叫びに応答したものなのだろう。メディアにおけるグレタの取り上げられ方をみると、みんな陰謀論が好きなのだなとおもう。想像しやすい/したい方向へ想像力をはたらかせるよりも、想像することが難しい/したくない方向へとはたらかせることの方がきっと重要であるのに。私は彼女が発する環境問題への感情的な言葉に心から共感できるわけではないし、それが私のひとつの悩みというか引け目を感じるところでもあるのだが、彼女の真意を受け取ることを拒否できる人間ははたしているのだろうか。それに彼女の姿勢は、世代間の非対称性について考えるよいきっかけになるのだろうなともおもう。人は生まれながらにして、以降生まれてくる人たちへの加害者でもあるという、どうしようもなさについてである。グレタも私も加害者側である。とやかく言うのであれば環境問題に対して直接的なアクションしなよ、という性急な話ではない道はないものか。

19時近くになったので池袋へ。移転準備中のコ本やにて、塚田さんと青柳さんとイラストレーション連続トークイベントの打ち合わせをする。楽しいし、楽しみである。なんとかして書籍化したい。移転先の店内は王子のときよりも広い。ここからまたおもしろい展示や取り組みが出てきたり派生したりするのだろう。場を持っている人たちは本当にすごいし尊い。建物の1階はクリニックであり、2階にある店内へは階段を上がったのだが、その途中病院のにおいがしてとてもよい感じであった。昔から病院のにおいを鼻に入れるとワクワクしてしまう。話がまとまり、帰路。JR線に乗って池袋から離れていると青柳さんから電話が。どうやらノートPCを置いてきてしまったみたい。新大久保で降りて引き返す。池袋駅まで青柳さんが持ってきてくれたので、ほっとしつつも、面倒をかけさせてしまったので申し訳なくおもう。ありがとうございました。

新高円寺に着く。なぜだかとても疲れていたので、近くの飲み屋さんに立ち寄る。お世辞にもきれいとは言えないが、安いし気楽でいられるしとてもお気に入りである。瓶ビールとかぼすサワーといくつか串を食べる。ここはたまねぎの串がおいしい。店にいたのは30分ほどだろうか、サッと帰る。

引き続き作業をしなければだが、その前にシャワーを浴びよう。

2019/10/18

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昨夜というか今朝、いつのまにか眠ってしまっていた。遅刻である。数日前の日記と同じような展開になってしまった。しかし今日は加えて社内会議に遅れることに。あらあら。紫色の野菜生活を飲みながら最寄りの駅へ。そのときから雨が降りそうな予感はしていたとおもう。

会議が終わる。ひどくお腹がすいていたので、カレーとカボチャ味のパンをほおばる。そこからは著者さんとやりとりしたり、依頼メールを送ったり、別件でご来社していたデザイナーさんとちょっと打ち合わせをしたり、印刷屋さんにスケジュールを確認したり、海外の版元との仲介役であるエージェンシーに画像素材の催促メールを送ったりする。現在制作中の翻訳書に使用する画像がまだ送られてこないのである。細々とした連絡が終えたら、ひたすら原稿確認。気がつけば22時過ぎ。あっというまであった。

今日お会いしたデザイナーさんのご兄弟である美学研究者の方が、あいちトリエンナーレの騒動についてのテキストを現代ビジネスのウェブサイトに寄せられていた。「芸術は自由に見ていい」教育の末路であるとして、そもそも芸術に興味のある者とそうでないものの"分断"についての整理であった。とてもよくわかる。しかしその記事は読んでほしいであろう人たちの目に届いているのだろうか、と、最近はそんなようなことについてよく考える。

そういえば今日、フィルムアートの優秀な編集者の方に、髪を染めましたね、いい感じですね、のようなことをすれ違いざまに言われて、少しうれしくなる。そう、6年ぶりくらいに染めたのである。限りなく黒に近いシルバー。彼とは同じビル内で働いているのだけれど、会話を交わすことはそこまで多くないのでちょっぴり驚きつつ、なんて返答すればよいか迷いつつ、染めたの1週間前なんです、ああそうなんだ申し訳ない、いえいえすみません、と謎のやりとりをするのであった。

外は雨が振っている。白い靴をチョイスしてしまったことが悔やまれるが、もうすぐ家である。着いたら作業してデザイナーさんへ連絡しなくては。

2019/10/11

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朝起きる。そういえばいつのまにか深い眠りに入ってしまっていたのだった。さて、遅刻である。以前までは出社時間は決められていなかったが、とある事情により現在では私のみ定められている。とはいえ遅れても誰かに怒られるわけでもないのだが。これはいかんということで、少し急いで会社へ。途中、ローソンでパイナップル&バナナのジュースを購入し、飲みながら会社に入る。ジュースはぬるくてあまりおいしくなかった。温度は味である。

そして編集会議。先週新企画として出した2案の進捗はさして進んでいないので、今回は特に提案なし。主な話題は来週上司がいくフランクフルト・ブックフェアについて。海外の版元のカタログを見ながら良いものがあるか皆で検討するが、いろいろと傾向が見えておもしろい。向こうでは出版社が出すカードゲームやパズルなどが盛況のよう。猫を筆頭とするさまざまな動物のイラストレーションがキュートなトランプや、フリーダ・カーロの可愛らしいパズルなんてものもある。本以外の売り上げの方が大きい版元もあるらしい。また、デザイン理論の本を出していた出版社が農業にまつわる本を出し始めたり、女性のデザイナーを取り上げる本を目にすることが多くなったりと、時代の流れを感じる。そういえば後者に関して、最近モクチン企画の中村くんが、建築史家のビアトリス・コロミーナが白人男性至上主義的な建築史観を糾弾する動画をFBでシェアしていた。建築のことはよくわからないけれど、エロティックなメディア論的とでもいうような視線から建築を捉える彼女のテキストには、これまで男性が作ってきた建築物に対する批判が込められていたのかもしれないと、いくらか納得する。

会議後は粛々と作業。15時過ぎくらいになりお昼ご飯を食べる。平日はほぼ毎日コンビニ飯でよくないなと思いつつ、コンビニ飯を食べる。ナポリタン。17時が過ぎたころに、先週間違えて足を運んでしまったHATRAの展示会へ。こういう場は初めてということもあり緊張しながら見て回る。私も1着、いや2着ほど欲しいな〜と思いながらスリスリ触る。特にワンピースみたいな服がクラゲと海藻みたいで美しかった。家を持たぬ海の生き物でHATRAの服を安易に例えてしまうあたりはナンセンスかもしれない。長見さんと少しだけお話しして、会場を後にする。こちらのプロジェクトも実現に向けて動いていきたいところである。

帰りの電車はとても混んでいた。駅構内のむさ苦しさは本当につらい。スマフォを眺めていたら、ネットニュースにて和田誠さんの訃報が。戦後日本に新しいイメージを作り上げるために和田さんが戦略的に利用した”イラストレーション”という言葉および実践は、それゆえに歪に、そして豊かに花開き、今でもすばらしいイラストレーターさんたちが活躍している。そんな昨今の”イラストレーション”は和田さんにはどのように映っていたのだろうか。亡くなる前に、南伸坊さんが書かれた『私のイラストレーション史』という和田さん中心史観ともいえる本が出版されて何よりだったのかもしれない。私はせめて、彼が嫌ったという”イラスト”という略称を今日の日記で使うのはよそうとおもう(最近まで嫌っていたかはわからないけれど)。ご冥福をお祈りします。

駅を出て、家に着く前にスーパーへ。時間帯のためか台風が近いためか、店内では50メートルほどの行列ができていた。びっくり。2ℓの水も在庫がすっからかん。カゴに入れていたコーヒー豆を戻して店を出る。コンビニへ寄るも、500mℓの水すらすっからかん。コーヒー豆と野菜生活を購入して帰宅。そして作業。明日も明後日もひたすら作業になりそうである。